
エジプト
1 章 基礎知識
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1 章 基礎知識
2 章 投資環境
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基礎知識
■正式国名 エジプト・アラブ共和国アラビア語表記 جمهورية مصر العربية英語名: Arab Republic of Egypt、通称 Egypt■国旗エジプトの国旗は、赤、白、黒の三色の横帯と、中央に描かれた国章「サラディンの鷲」から成っています。赤、白、黒は、汎アラブ色と呼ばれる4色から、緑を除いた3色で、赤は革命前の国民が犠牲を強いられた時代、白はアラブ民族主義革命による明るい未来、黒は植民地支配等の抑圧者の敗北と終わりを意味します。
■面積・国土 約100万㎢(日本の約2.6倍)アフリカ大陸の北東部に位置し、日本の国土の約2.6倍の約100万㎢を有します。国土の9割が砂漠ですが、東部を南北に 1,350kmにわたり流れるナイル川の流域、特に下流デルタ地帯には灌漑による農耕地が広がり人口が密集しています。国土の西はリビア、南はスーダンと国境を接し、東は紅海に面してサウジアラビア、北は地中海に面しています。東北部のスエズ運河東岸には、地中海と紅海の挟まれる形でシナイ半島があり、東側をイスラエルとガザ地区に接しています。シナイ半島は、1967年第3次中東戦争でイスラエルに占領されましたが、1978年の和平合意によってエジプトに返還されています。
■首都 → カイロナイル下流域に位置する首都カイロは、人口は942万人(2015年)、隣接するギーザ市などをあわせた都市圏人口は約1,560万人、アフリカ大陸およびアラビア語圏最大の大都市です。7世紀後半のイスラム帝国の軍営都市を起源とし、10世紀にファティーマ朝の首都として「勝利の町」を意味するカヒーラ(القاهرة)と名付けられました。その英語読みがカイロ(Cairo)です。ローマ帝国、十字軍、オスマントルコ、ナポレオン軍、英仏による干渉など、度重なる外部からの侵略の歴史を経ながらも繁栄を続けてきました。現在のカイロは、エジプトの政治・経済の中心であるばかりでなく、イスラム・アラブ圏の文化・学術の中心地でもあります。イスラム世界最古の大学であるアズハル大学や、アラブの世俗教育の最高学府と言われるカイロ大学などがあることで知られています。また、アラブ連盟の本部が置かれている都市でもあります。■気候エジプトは国土全域が砂漠気候帯に属しており、降水量の極めて少ない国です。地中海沿岸のアレクサンドリアやナイルデルタ河口域に限っては冬季に雨が降りますが、カイロではほんのわずかで、カイロ以南や西方・東方砂漠ではまったく雨は降りません。12月~2月が冬季で最低気温が10℃を下回るところも多く寒くなります。3月~5月はハムシーンと呼ばれる砂嵐が吹き荒れる季節となり、その後に30℃を越える暑い季節となります。場所によっては40℃を越える灼熱となります。.png)
■時差 -7時間(UTC +2)日本時間マイナス7時間がエジプト時間です。例えば、日本時間の正午は、エジプトでは午前5時、日本時間の午後7時がモロッコの正午にあたります。サマータイム(‐6時間)が2010年と2014年に導入されましたが、イスラム歴に基づいて行われるラマダンとの兼ね合いで混乱が多いとの理由から、2015年は実施されていません。■通貨 エジプト・ポンド(£E) 1 E£=14.99円(2015年11月2日現在)通貨単位はエジプト・ポンド(E£)で、アラビア語ではギニーと呼ばれることが多いです。補助通貨単位としてピアストル(Pt)があり、1E£が100Ptにあたります。紙幣は8種類(100E£、50E£、20E£、10E£、5E£、1E£、50Pt、25Pt)、硬貨は6種類(25Pt、20Pt、10Pt、5Pt、2Pt、1Pt)です。■人口 → 8,979万人(2015年 エジプト統計局)エジプトの人口は8,979万人で、アフリカではナイジェリア、エチオピアに次ぐ人口大国です。2010年~2015年特殊合計出生率が2.8人、人口増加率が1.6%と高く、毎年100万人以上の人口増加があり、2020年代に1億人を突破すると予測されています。15歳から64歳までの労働可能人口比率が58.9%(2015年 国連推計)と高く、人口ボーナス期に突入しつつあると言えます。
■言語 公用語:アラビア語公用語はイスラムの聖典コーランで記されている「フスハー」と呼ばれる正則アラビア語です。公文書、新聞、書籍などの印刷物、公的な場での演説や報道などで用いられるものです。国連の6つの公式言語の1つでもあります。一般の会話は「アーンミーヤ」と呼ばれるアラビア語口語のエジプト方言が使われます。カイロがアラブ世界の音楽・テレビ・映画製作の中心地となっているため、カイロで話される方言がエジプト全域だけでなく、中東のアラビア語圏で広く理解される汎用後になりつつあると言われています。■宗教エジプトにおける宗教は、イスラム教徒が90%(2015年 CIA)を占め、そのほとんどがスンニ派です。キリスト教徒が10%で、古代キリスト教のひとつであるコプト教徒が多く、アルメニア正教、ローマ・カソリックなどもいます。政治的には長らく世俗主義(政教分離)の立場をとってきましたが、「アラブの春」以降の数年間に流動的となっています。2012年、ムスリム同胞団を支持基盤とするムルシー政権下の新憲法においては、イスラム教を国教とし、シャリーア(イスラム法)に則った法整備を行うことが規定されました。しかし、再びの政変ののち2014年の修正憲法においては、政教分離・世俗主義が明確に示されています。 -
政治体制と歴史
■政治体制[政治体制]共和制[元首]アブドゥルファッターハ・エルシーシ大統領(2014年6月就任)[議会]人民議会一院制 596議席(公選議席568、大統領任命議席28)[政府]首相:シェリーフ・イスマイル(2015年9月19日就任)外相:サーメハ・シュクリ(2014年6月就任)人民議会は、政変にともない2012年より停止状態が続いていましたが、2015年10月に3年ぶりに議会選挙が行われることとなりました。この間、2014年の修正憲法により議会は一院制となり、諮問評議会は廃止となっています。また、修正憲法のもと大統領選挙が実施され、2014年6月にエルシーシ大統領が選出されています。■歴史(近代史)[ エジプト王国の独立と英仏の干渉 ] (19世紀~)オスマントルコのエジプト総督だったムハンマド・アリーは、富国強兵策などによりエジプトの近代化を図り、1869年にフランスとともにスエズ運河を開通させます。第1次世界大戦後には独立の機運が高まり、1922年にエジプト王国として独立を果たしムハマンド・アリー朝となります。しかし、スエズ運河の開通を巡る英国の干渉が強まり、19世紀後半には事実上の英国保護領となります。[ イスラエルの独立と第一次中東戦争 ] (1948年~1949年)第二次大戦後の1948年にイスラエルが独立を宣言しました。これに反発したエジプトを含む周辺アラブ各国が進軍し、第一次中東戦争となります。翌1949年、イスラエル優勢の状況下で国連停戦勧告を受け入れることとなり、事実上アラブ側の敗北となりました。[ ナセル大統領とスエズ運河の国有化 ] (1952年~1970年)1952年、ナセルが率いる青年将校らによってクーデターが起き、翌1953年にエジプトは共和制へと移行しました。ナセル大統領は、汎アラブ主義を打ち出し、1956年には英仏管理下にあったスエズ運河の国有化を宣言します。英仏の反発をきっかけとして第二次中東戦争(スエズ動乱)が勃発、英仏イスラエルがスエズに侵攻します。しかし、国際世論を背景とした国連調停により停戦合意がなされ、同年12月にスエズ運河の国有化は受け入れられました。これを契機に、エジプトはアラブ世界のリーダーとしてみなされるようになります。1958年にシリアとアラブ連合共和国を結成してアラブの連帯を目指すものの、1961年には解消、1967年に第三次中東戦争(六日戦争)に大敗しナセル大統領の求心力は失われていきます。1970年ナセル大統領死去。[ エジプト・イスラエル平和条約(キャンプ・デービッド合意) ] (1979年)1973年、第四次中東戦争では、アラブ側が先制攻撃に出て優勢のうちに停戦となります。こういった状況を背景として、ナセルの後任となったサダト大統領は親米・親イスラエルに劇的に舵を取り直し、1979年アメリカの仲介により「エジプト・イスラエル平和条約」(キャンプ・デービッド合意)に調印をします。30年以上にわたる戦争状態を和平に導いた功績によりサダト大統領はノーベル平和賞を受賞しますが、エジプトはアラブ連盟の資格停止となり、1981年にサダト大統領は急進的イスラム主義者に暗殺されました。[ ムバラク長期政権 ] (1981年~2011年)1981年中東戦争での国民的英雄だったムバラクが大統領となり、30年間にわたる長期政権を築きます。親米・親イスラエル路線を引き継ぎましたが、1984年にソ連との外交関係を修復、1990年にアラブ連盟への復帰を果たすなど、現実的な手法で外交面での安定化を進めました。国内に反米・反イスラエルの火種は抱えながらも、西側経済社会から投資を呼び込み、経済成長の土台を築くことに成功しました。[ 「アラブの春」とその後 ] (2011年~)2010年にチュニジアで始まった「アラブの春」は翌年エジプトに波及し、2011年に大規模な反政府・民主化要求活動「1月25日革命」が起き、29年間続いたムバラク大統領による長期政権は終焉をむかえました。貧富の格差や高い失業率、「開発独裁」と呼ばれたムバラク長期政権の権力構造と政治腐敗に対する国民の不満があったと言われています。2012年に選挙によってイスラム主義勢力であるムスリム同胞団を支持基盤とするムルシー政権(自由と公正党)が誕生し、イスラム色の強い新憲法が制定されました。しかし、世俗勢力との対立、経済の低迷、治安の悪化などを背景として、再び大規模な反政府活動が起きます。2013年7月に軍部の介入によりムルスィー大統領辞任、暫定政権へと移行する政変が起きました。2014年1月に、イスラム色を排して政教分離を謳う修正憲法が制定、同6月の大統領選挙により再び軍部出身者が選出されエルシーシ大統領が就任しました。 -
教育と教育システム
■教育システムエジプトの教育制度は、日本と同じ6・3・3・4制を採っています。義務教育は小学校と中学校の計9年です。カリキュラムにおいてイスラム教の授業が必修、公立校の授業は基本的にアラビア語で行われます。就学率は小学校95%、中学校88%(2010年)と高く、15歳以上の識字率は73.8%(CIA 2015年予測)で、アフリカ・アラブ地域においては教育レベルの高い国であると言えます。識字率、就学率ともに男女差と都市/農村部の格差がありますが改善が進められています。中学校卒業後は、一般高等学校(3年)と職業高校(3年~5年)があり、職業高校卒業生も大学進学資格があります。大学は通常4年制で、工学部は5年、医学部は6年となっています。公立大学は「サナウィーヤ・アンマ」と呼ばれる全国統一テストの成績により、大学・学部・学科を選択できる仕組みとなっています。若年人口の増加と大学進学率の上昇により受験戦争が厳しくなっていると言われています。主な高等教育機関としては、西暦988年創立のアル=アズハル大学、エジプトを代表するカイロ大学があり、アラブ・イスラム世界の多くの国から多数の留学生が集まりますエジプトでは1952年に共和制に移行して以降、大学などの高等教育機関も含めすべての公的教育機関が原則無料化されています。しかし、公的な教育インフラにおいては、教員不足や多人数授業による教育の質の低下などの課題も抱えています。そのため、富裕層は学費が高額な私立学校や、「ランゲージ・スクール」と呼ばれる英語やフランス語で授業を行う一貫校に通わせることも多くなっています。
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