中国
2 章 基礎知識
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1 章 序章
2 章 基礎知識
3 章 経済環境
4 章 投資環境
5 章 M&A
6 章 外国為替
7 章 設立
8 章 撤退
9 章 会社法
10 章 税法
11 章 会計
12 章 国際税務戦略
13 章 移転価格税制
14 章 労働環境
15 章 国際人事マネジメント
16 章 Q&A
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基礎知識
■正式国名⇔中華人民共和国英語名:People’s Republic of China中国語名:中华人民共和国(简体)、中華人民共和國(繁体)
■国旗
中国の国旗は、五星紅旗と呼ばれ、赤地に大きい星が1つとこれを囲むように小さい星が4つ配されています。赤色は革命、黄色は光明を表しています。4つの小さい星は階級を示し、それぞれ労働者、農民、プチブルジョア階級、愛国心の強い資本家を意味しています。また、大きい星は中国共産党の指導力を表現し、各階級にいる人民が中国共産党の下に集まって団結することを象徴しています。
■面積・国土⇔9,596,960km2(日本の約26倍)国土面積は960万㎢で、世界第3位の広さを誇ります。これは日本の約26倍に相当します。ユーラシア大陸の東部に位置し、日本や韓国、フィリピンなどと向かい合い、渤海、黄海、東シナ海、南シナ海などに面して1万8,000kmもの海岸線を持ちます。内陸は、北はロシア、モンゴル、西はカザフスタン、アフガニスタン、パキスタンなどに面し、南はインド、ネパール、ミャンマー、ベトナムなど、東は朝鮮民主主義人民共和国と国境を接し、その国境線の距離は2万2,800kmにもなります。
■首都⇔北京華北地方の中央に位置し、元、明、清など800年間において都がおかれ、1949年に新中国が成立して再び首都となりました。人口は2,114万人(2013年末時点)で、上海に次いで中国では第2位の大都市です。中央人民政府など主要国家機関のすべてが北京にあり、政治の中心地です。
■気候中国の国土は広大で、東南アジアに近い熱帯地方から、シベリアに近い寒冷地域、乾燥した砂漠、湿潤な稲作地帯とバラエティに富んでいます。全体としては南東の海に近い地域は降雨量が多く、北西の内陸に向かうに従い、少なくなる傾向にあります。また、モンスーン(季節風)の影響もあり、降雨量が季節によって異なる地域が多くあります。上海や杭州などは沿岸地域にあり、重慶や成都などは内陸の奥まった盆地にあります。北京は北緯40度に位置し暖温帯ですが、広州や南寧、海南は亜熱帯から熱帯に属します。各都市によって気候条件が異なるというのが大きな特徴でもあります。
■時差⇔-1時間(UTC:+8)日本との時差は-1時間で、日本の正午が中国の午前11時です。国土は広いですが、全国統一の時間帯を使用しています。また、サマータイムは採用していません。
■人口⇔約13億6,000万人中国は世界最大の人口を擁する国で、2013年末時点の人口統計上では約13億6,072万人です。これは日本の約10倍、世界人口の約5分の1にあたります。第二次世界大戦後急激に人口が増加したため、1979年に政府は「一人っ子政策」を導入しました。その結果人口増加は収まり、その後は横ばい状態が続いていて、2050年には世界一の座はインドにとって代わられると考えられています。
■言語⇔中国語中国の公用語は中国語(普通話)といわれている言葉です。中国語には多くの地方語があり、代表的なものとしては広州語、上海語、北京語などがあります。これらの言語は発音や声調(声の高低)、語彙だけでなく文法まで異なるため、日本の方言よりも大きな違いがあります。北京語をもとにして1956年以後に標準語とされたものが、現在、広く使われている中国語(普通話)となりました。書面語といわれる書き言葉は、もともと数万字にも及ぶ漢字があるといわれていますが、1964年より、簡略化された書体である簡体字が開発され広く普及しています。現在は、3,500字程度に制限して使用されています。また、一部の民族自治区では、少数民族の書体も併用されています。
■通貨使用通貨は、中国人民銀行が発行した人民幣(RMB:Rénmínbì)で、日本では人民元と呼ばれています。通貨単位は元で、紙幣には「圓」または「圆」と書かれており、「ユェン」(Yuán)と読みます(一般的に紙幣は「圓」、硬貨は「元」で表記されますが、「元」には通貨一般を表す意味もあります)。紙幣は100元、50元、20元、10元、5元、1元の6種類があります。現在では毛沢東の肖像のある第5版が主に流通していますが、小額紙幣の一部には旧版もあります。補助単位は「角」(ジャオ)と「分」(フェン)があり、硬貨は1元、5角、1角、5分、2分、1分の6種類です。
■中国の宗教
中国の主な宗教は、仏教、道教、儒教、キリスト教、イスラム教などです。しかし、統計上はその信者すべてを合計しても人口の1割未満で、多くは無宗教です。欧米的宗教観とは異なり、多数を占める漢族が複数の宗教を生活に取り入れていること、儀礼や伝統的習慣として根付いていることを宗教とみなさない傾向にあること、文化大革命時代の宗教弾圧による影響などの理由で、宗教的な国ではないと言われています。最も、憲法では信教の自由は認められており、実際には多くの仏教寺院があり、祭礼が行われています。
■政治体制[政治体制]社会主義共和制
[元首]国家主席習近平
[政府]首相:李克強(国務院総理)外相:王毅(外交部長)
中華人民共和国は、中国共産党による一党独裁体制をとっている国です。「すべての権力が人民に集まる」という思想のもとに、省・直轄市・自治区・軍隊が選出する代表によって構成される「全国人民代表大会(全人代)」に権限が集中する形式になっています。その全人代とその他の国家機関のすべての指導的立場に中国共産党があると憲法が規定しています。そのため、共産党の最高指導者集団である「中央政治局常務委員会」が、事実上の権力を握って政治を動かしているのが実態といえるでしょう。2012年11月に胡錦濤、温家宝らが引退し、習近平が中央政治局常務委員に再選、中国共産党総書記と中央軍事委員会主席総書記に選出され、2013年3月には第12期全人代で国家主席および国家中央軍事委員会主席に選出されて名実ともに習近平体制となりました。
■歴史(1949年~現代)[中華人民共和国政府樹立]第二次世界大戦の終結と、その前後して起きた国民党と共産党との内戦に、毛沢東率いる共産党が勝利するかたちで、1949年に北京に共産主義政党独裁国家である中華人民共和国政府が樹立されました。なお、国民党は台湾に本拠地を移し現在に至っています。
[大躍進運動]1958年から60年にかけて、毛沢東はマルクス主義を原則とした上で、経済的に欧米を追い越すことを目標に掲げ「大躍進運動」を展開しました。農業の集団化や工業の大増産などを柱としたもので、農村のほぼすべてが人民公社に再編されました。その結果、農業生産力は激減し、自然災害も重なって数千万人ともいわれる餓死者が出ました。中国経済は深刻な状況となり、マルクス主義のイデオロギーを優先した「大躍進政策」は失敗に終わり、毛沢東は国家主席を辞任しました。この頃から、共産党内の路線対立が顕在化し始めます。
[文化大革命]大躍進運動が失敗に終わったあと、毛沢東に代わって劉少奇・鄧小平などが、革命より社会の安定を優先する修正主義的路線に基づいて、経済を再建していくことになります。しかし、1966年頃から路線対立が再燃化し、激しい政治抗争と膨大な人々を巻き込んだ文化大革命へと拡大しました。「反革命的」とされる文化人・一般人などが政府によって大規模に粛清され、一説によると数百万人以上の犠牲者があったとされています。1970年代はいわば内戦の様相を呈し、経済活動の長期停滞による疲弊も限界にまで達したところで沈静化に向かいました。1976年、毛沢東の死去により、約10年に及ぶ文化大革命が終焉を迎えることとなります。
[国連加盟と対外戦略]1970年代には国際社会での位置づけが大きく変化しています。1969年に起きた国境紛争を契機にソビエト(当時)との関係は悪化していきましたが、一方で、西側諸国との関係改善を模索します。1972年には米ニクソン大統領、日本の田中角栄首相が相次いで訪中し、同年2月28日にアメリカと中国で「第一次米中共同声明」、そして同年9月29日に日本と中国で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」に署名したことから3カ国の国交が樹立しました。また、1971年に国連の代表権が中華人民共和国に移り、国連常任理事国となります。第二次世界大戦の一応の終結と、国際社会の足場が固められた時期となりました。
[改革開放路線の始まり]1977年には、失脚していた鄧小平と修正主義者といわれていた現実主義的な立場の指導者たちが復帰を果たし、改革開放路線に進むことになります。農村で余剰生産物の販売をできるようにしたり、企業の独立採算を認めたりしながら、計画経済に市場経済の要素を加えていき、段階的に商品価格が市場原理によって決まるような方向にはっきりと舵がとられました。日米との国交正常化を契機として西側諸国との関係を改善したことにより、経済援助を取り込みつつ経済の拡大と生産力の増大を図り、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長します。
[天安門事件]1980年代に入ると、改革開放路線は加速し、より自由な経済活動が行われるようになりました。それに伴い言論の自由を求める民主化の動きも盛んになりました。民主化に積極的であった中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦の死去をきっかけとして、学生、知識人を中心とした市民の不満が高まり、1989年6月、天安門広場での大規模なデモが起きました。これに対して政府は保守派勢力が主導権をとり、中国人民解放軍によりデモを武力弾圧します。経済は改革開放路線をとっていますが、共産党独裁体制の脅威となる動きに対しては強硬姿勢をとることを国民に示しました。
[高度経済成長時代へ]1993年に江沢民が国家主席に就任し、鄧小平の後継者として改革開放路線を概ね引き継ぎ、よりいっそうの経済発展を推し進めることとなります。GDPが1990年の3,888億USドルから2000年の1兆71億USドルになるなど、高度経済成長時代となりました。2001年には中国は世界貿易機関(WTO)へ加盟し、国際経済においても経済開放に向かいました。また、1997年に香港、1999年に澳門(マカオ)が中国に返還され、一国二制度といった柔軟な対応をしています。2005年以降、胡錦濤総書記と温家宝総理体制となり、経済成長と開放路線が続きました。東部沿岸地域を先行させて牽引力とするといった考え方が優勢だった江沢民時代に比べると、より中国全域の成長を重視する姿勢が打ち出されました。2008年の北京オリンピック、2010年の上海万国博覧会など、国の威信をかけた大型プロジェクトもあり、世界経済を牽引する立場にもなりました。そして、今後は経済成長のひずみとされる貧富の格差などの課題に取り組む姿勢が打ち出されました。
[習近平体制と日中関係]2012年11月から翌年にかけて、中国首脳部は習近平・李克強による体制へと移行しました。目覚ましい高度経済成長時代が終焉を向かえ、貧富の格差、政治腐敗、デモの頻発、少数民族の自治独立問題など、多くの課題を抱えての新体制の始まりとなりました。新体制では、李克強首相が主導して、構造改革を進めることによって緩やかな経済成長と社会の安定を目指すという、いわゆるリコノミクスといわれる方針が打ち出されています。エネルギーや金融部門の既得権益に切り込むことも予想され、政治的な意味合いも強く、今後の動向に注目が集まっています。また、2012年9月に日本政府による尖閣諸島の国有化の後、中国国内での反日感情が高まり、日本製品の不買運動や日本企業への破壊行為が広がりました。これらの過激な動きは鎮静化されましたが、その後も日中関係はぎくしゃくしていると言われ、経済分野においてもチャイナリスクの再検証をする動きも出始めたと言われています。中国国内問題と日中関係は密接にリンクしており、今後の動きにさらなる注視が求められるところです。
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教育と教育システム
■教育中国は、識字率も義務教育の就学率も、全体的に非常に高く、伝統的に国家としても個人としても教育を重視している国です。総務省統計局(2009年)によると、国民全体の識字率は94.0%であり、男女別では男性96.9%、女性90.9%となっています。特に、ここ数年の高度経済成長に伴う教育熱の高まりや高等教育の拡充などにより一大教育大国となりました。
■教育システム中国の学校制度は日本の学校制度とよく似ています。小学校が6年制、初級中学が3年制で、ここまでの9年間を義務教育としています。その後は普通教育と職業教育に分かれており、大学など高等教育機関への進学をメインとする高級中学校、職業技術教育を行う中等専門学校、技術労働者学校、職業中学校に分かれています。高等教育は大学が4年制(医学部、工学部などの一部は5年制)、大学院修士は2~3年制、博士課程は3年制となっています。全国で統一した教育制度とされており、基本的には6~7歳で学校に入学し、義務教育は日本と同様に6年制と3年制となっています。地方によっては経済状況などを考慮して、入学年齢や就学年数などがある程度柔軟に設定されており、5年制と4年制を採用している地域もあります。以前は、義務教育は約9割まで普及していたものの、高等教育はごく限られたエリートや専門家のための狭き門でした。一人っ子政策の影響もあり、我が子を高等教育機関へ進学させるための受験戦争が過熱しました。1990年代後半からは高等教育機関の募集枠が拡大され、多くの高学歴者が輩出されるようになりました。その結果、近年では大学卒業者の就職難が社会問題になっています。
出所:文部科学省
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参考文献
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